新説・日本書紀⑯ 福永晋三と往く
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2018年(平成30年)8月18日 土曜日
成務天皇 筑豊の大乱後、復興に務める
記紀から消された女王
13代成務天皇は、書紀によれば、311年に即位したことになる。景行は310年に没したとある。晋書によれば、台与は266年に13歳での即位と考えられるから、約半世紀の在位期間の記事がない。台与は享年57であったか。景行の陵が「倭国の山辺道上陵」とあるから、これが台与の陵であろう。直方市山部の鞍手高周辺を探索中である。
台与の生前の最大の業績は、魏志倭人伝に「国中遂に定まる」とあるように、倭国大乱と卑弥呼の死後の乱と合せて120年におよぶ乱を鎮め、倭国に再び平和を取り戻したことに尽きる。
国外では、晋書の266年の倭女王の遣使以降、倭国の情報は途切れるが、韓半島の「三国史記」新羅本紀に若干の記事が残されている。
287年、倭人が一礼部を襲撃し、火を放って焼き、一千人を捕虜として去った。
292年、倭兵が沙道城を攻め落とした。
294年、倭兵が来襲して長峯城を攻撃した。
300年、倭国に使者を送った。
312年、倭国王が使者を遣わし、皇子のために婚姻の要請をした。
台与の在位中は、倭兵が新羅を攻撃ばかりしている。300年に新羅から使者が来た後、和平の方針に転じたようだ。312年の倭国王がおそらく成務天皇であろう。
では、台与は邪馬台国内ではどのような治世を行ったのであろうか。景行・成務の治世から推測する。
封建制から郡県制に移行
景行の子が80人もいた。国乳別皇子は水沼別(旧三潴郡)の始祖、豊戸別皇子は火国別(佐賀県か)の始祖となった。日本武尊と稚足彦天皇(成務)と五百城入彦皇子以外の70余の子は、「皆国郡に封じて、各々その国に行かせた」とあり、漢書の百余国、後漢書・魏志倭人伝の三十国と、倭国(邪馬台国)は長らく「封建制」の国家組織であったことが分かる。通説の「邪馬台国連合」などはなかったのである。しかも、「今、諸国の別と言っているのは、別王の子孫である」との説明がある。景行の和名も大足彦忍代別天皇であり、決して本家とか嫡流の大王ではない。
台与の後に即位したと思われる成務天皇は、倭国の長年の封建制を廃したようだ。書紀によれば、次のように記してある。
「人民は、うごめく虫のように粗野な心を改めない。国や郡に長官が無く、県や邑に官吏がいないからだ」と言い、「国や郡に造長を立て、県や邑に稲置を置いた。盾や矛を下賜して身分の表徴とした。山や川を境とし国や県を分けた。東西南北の道に沿って、邑や里を定めた」とある。「郡県制」の始まりである。倭国は中央集権の体制に切り替えたようだ。
「鞍手郡誌」には書紀にない、驚嘆すべき具体例が書かれている。
筑紫国造に田道命が封ぜられ、鞍手地方に物部印岐美ノ連が「稲置」に封ぜられた。宮若市宮田生見の地である。「和名抄」に伊無美とあり、古い地名だが、生見はイキミとも読める。また、福智山山頂に「国割石」が残り、犬鳴山は「稲置山」が転訛したものと記している。
「成務は、古事記によれば、近淡海(古遠賀湾)の志賀の高穴穂宮(直方市頓野の近津神社)で天下を治めたとある。筑豊の大乱後の復興に務めた天皇であろう。
次回は9月1日に掲載予定です
直方市頓野の近津神社。拝殿の手前左の石碑に成務天皇の名前がある
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